【とほん読書ノート004】
小学生の娘を連れて家電量販店に行くと、たいていルンバのコーナーに行ってボタンを押して動かして遊んでいる。日本で一番親しまれているロボットはルンバだろうなと思う。この本を読むと、なぜルンバがこんなに人に愛されているのかわかる。そして、それはコミュニケーションについて考えるきっかけとなる。
私が子供の頃に思い描かれていた未来のロボットは「様々な機能を搭載して何でもできる」ロボット。お掃除ロボットと言えば、センサーでゴミの場所を瞬時に見極め、最適な方法でそのゴミを除去するというものだろう。だが、ルンバとえいば、とりあえず目の前(本体下部)のゴミを拾いながら真っ直ぐ進み、ぶつかったら方向展開してまた真っ直ぐ進むだけ。スリッパや延長コードなどに引っかかると動けなくなって電池切れという事態にも。
こんなことで掃除ロボットとして大丈夫なのかと思いきや、その健気に働く姿を見た家主たちはスリッパや延長コードを片付けて、部屋の配置をルンバが動きやすいようにすっきりさせたり。まるでルンバと共同で部屋を綺麗にしているようなことに。これはルンバのもつ「不完全さ」言い換えればロボットとしての「弱さ」によって、共同作業というコミュニケーションが生まれていると考えられるのでは。
著書はルンバを見てこの本を書いたのではなく、ルンバが登場するずっと以前からこうしたロボットの不完全さによって生まれる人とのコミュニケーションについて研究を続けていました。ゴミ箱の形でテクテク歩きながらも自らゴミを拾うことができず、思わず周りの人がゴミを拾って入れてしまう〈ゴミ箱ロボット〉、たどたどしく話ことで相手がいろいろと気を使って言葉をかけてしまう〈トーキング・アリー〉、一緒に手をつないで歩くだけの〈マコの手〉など。
相手に何かをさせる、何かを求める〈対峙しあう関係〉から一緒に何かをする〈並ぶ関係〉となるロボット。機能をプラスして完璧を目指すロボットでは「あれが足りない」「これが出来ない」という不満の目は避けられません。「このロボットとなら何ができるだろうか」そんなロボットについて考えることが、人と人との関係についても繋がっていきます。
2018/06/13
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