【とほん読書ノート013】
私はいろんなことを待っていたのかと気づかされる。人が希望を持ち、それが叶うまでの状態を「待つ」だと思えば、人生のあらゆる場面で人は「待つ」ことになる。
本書では「待つ」ことから発生する様々な思いを哲学的に考察して、待つことの意味を捉えなおしていく哲学エッセイ。
「わたしの行為の、あるいは発言の、どれひとつしてだれにも待たれることがないという事態に、おそらくひとは耐ええない。親を、友人を、恋人を、ひとが終生求めつづけるのは、「待たれる」ことがじぶんの存在の最後の支えのひとつになりうることを知っているからである。」P54
なんとなくネガティブなイメージだった待つことの意味が更新されていく。待つことは希望が叶わない状態であり、早く終わればいいものと思っていたが、そうではなかった。私が「待つ/待たれる」とき、私と相手はお互いの存在を確かなものにする。誰も待たない、誰も待たせない人生を思い浮かべてみるが、それは世界に自分しかいないことと同じだった。
待つといってもその状況や待っている人の感情はさまざま。著者は様々な文献を引用しつつ、臨床的なケアの問題に向きあい、時には演劇『ゴドーを待ちながら』を援用しながら、待つ状態が抱える意味を問い直す。
章のタイトルも印象的だ。焦れ、予期、自壊、冷却、是正、省略、遮断、膠着、退却、放棄、空転…。待つというシンプルにも思える状況が、期待と現実に引き裂かれ、感情をあらゆる角度から揺さぶることが深く考察されていく。
待つことは希望に支えられる。その希望が砕け散ったとき、それでも待つことを別のかたちで続けることができるのは、どうしてか。希望ではなく、希望の兆しの断念ののちに、それでも待つことをおのれに言い聞かせることができるのは、どうしてか。もうなんの到来をも待ち受けないでひたすら待つともなく待つ、そのいとなみの行く末を考える道筋のひとつとして、だから、やはり、「祈り」という言葉をとっておきたいとおもう。
P127
読みながら自分の人生を振り返ってしまう。私は人生のなかで、忘れてしまったこと、希望を捨てて、待つことをやめたことがいくつあっただろう。本書では絶望的な状況で待つことについて掘り下げていく部分も多い。私は幸いながら、そこまで何かを救いのない気持ちで待ち続けたことはない。
それでも、いつか私もどうしても捨てられない、忘れることのできない希望にすがり、祈るように何かを待ち続ける日が来るのかも知れない。
※本書は『山學ノオト3刊行記念フェア』 ルチャリブロさん推薦本です。
「待つ」ということ
鷲田清一
角川選書
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